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おんなのいきざま

女を楽しむ

マリー・アントワネット

1755年11月2日ー1793年10月16日

 

フランス国王ルイ16世の王妃

 

父:神聖ローマ帝国フランツ1世

母:マリア=テレジア

 

 

 【無邪気な王女】

幼少期は芸術に触れ、演奏を得意とした。

 

【結婚】

当時のオーストリアプロイセンの脅威に晒されていたため、以前までのフランスとの不仲を解消することに。(外交革命)

その一環としてマリー・アントワネットは14歳の時にフランス王太子ルイと結婚する。

 

フランス革命

王家一家でオーストリアへの亡命を試みるも、馬車に銀食器、食料品、ワイン等を積みこんだこともあり予定通りに事が運ばなかった。結果ヴァレンヌで捕まり、民衆からの信頼が失墜する。

ルイ16世はギロチンによる斬首刑に処され、その後マリー・アントワネットも同様にギロチンにかけられる。

ココ・シャネル

生まれ:フランス南西部オーヴェルニュ地方ソミュール
生涯:1883年8月19日〜1971年1月10日

父:行商人
母:11歳の時に死去

 

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幼い頃に母を亡くし父に捨てられ、修道院や孤児院で育つ。
18歳で孤児院を出た後は歌手を目指しキャバレーで歌っていたが、芽が出ず諦める。
その後当時付き合っていた将校バルサンに連れられ、パリ郊外で過ごすことに。

パリで退屈しのぎで作っていた帽子が評判になり、1909年(26歳)パリ17区マルゼルブ大通り160番地で帽子のアトリエを開業する。

 

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パリ1区カンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子店を開店。この頃バルサンと別れ、生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。店の開設資金はカペルによるものである。

第1次世界大戦勃発の翌年、1915年ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン、翌年のコレクションでジャージ素材を取り入れたドレスが話題に。

 

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カペルは、1919年シャネルに会う途中で自動車事故により死亡する。

 助言者でもあり、恋人でもあったカペルを亡くし、失意のなかの深い闇を彷徨いながら、ココ・シャネルが傷ついた心を癒すため2ヶ月近く立ち寄った、イタリアのヴェネチア「ホテル・ダニエリ:Hotel Danieli」・・・
当時のことを彼女はこう述べている、
「夜の風、水の音、空と月、それが私の心を癒してくれた」・・・と、
そして、魔法のようなヴェネツィアの夜に人生の深い何物か、真に生きることの意味をつかみ取る。

  「人生がわかるのは逆境のときよ」

 

1921年/38歳  本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「No.5」、「No.22」を発表した。

 

   「 香水をつけない女に未来はない 」

 

 

イギリスの大富豪第2代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーと出会い、以降6年間に及び交際する。この間にグローヴナーから多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。

1930年代初頭に100万ドルの契約金でハリウッドに招かれて、シャネルの大ファンであった グロリア・スワンソンの映画の衣装制作に携わったが、スクリーン上では地味で見映えの悪いシャネルの衣装は不評で、また彼女自身も他人に命令されることが大嫌いなワンマン体質であった為、僅か二作を手掛けただけでフランスに帰国した。

一方、シャネルが一方的にライバル視した エルザ・スキャパレリはハリウッドでもフランスでもシャネル以上に成功し持て囃された。

1939年、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。苦労してその地位を築いたシャネルには労働環境を重視する彼らの考えを受け入れられずに対立し、シャネルは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。

第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期の15年間、シャネルはフランスのファッション界で沈黙を守る。ファッションで生計が立てられなくなったが、香水は比較的好調であったので、その売上金で隠居生活中も優雅な生活が送ることが出来た。

 

1954年、スイスでの亡命生活を終えパリに戻ったシャネルは、ホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界へ復帰を果たした。

シャネルの第二次世界大戦時の言動に対する嫌悪感が根強く残っていた当時は、「古臭い」としてヨーロッパではバッシングを受けたが、女性の社会進出がめざましかったアメリカでは熱狂的に受け入れられた。

 

晩年のシャネルは孤独による不安や不眠症に悩まされ、1日1本のモルヒネ注射が欠かせなくなっていた。 シャネルは1971年、住居としていたパリのホテル・リッツにて、コレクションの準備中に87歳で亡くなった。シャネルの亡骸は第二次世界大戦中のドイツへの協力及びフランスへの裏切り行為によって、高級墓地への埋葬を拒否された。亡命生活を送っていたローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」に埋葬された。シャネルの遺言により、墓石の周りには白い花が咲き乱れている。

 

シャネルは、コルセットが多用されていた1910年代-1920年代の女性服に対して「どうして女は窮屈な服装に耐えなければならないのか」という疑問を抱いていた。それに対する答えとしてイギリスの紳士服の仕立てや素材を女性服に応用し、スポーティでシンプルなデザインの「シャネル・スーツ」を生み出した。

なおシャネルはかなり痩せた体型だった。そのため、モデルとしてシャネルの服を着たシャネルがきっかけで、現在に至るまで「ファッションモデルは痩せている方が美しい、という固定観念が生まれた」とされる。